つれづれ日記

思いついたことを気ままに書いていきます。

今日は終戦記念日だそうですが

 こんにちは。今日は時期が時期なのでテツ旅の記録はお休みさせていただきます。

 

 本日8月15日は日本がポツダム宣言を受諾したことを国民にラジオ放送で知らせた日です。終戦記念日ならポツダム宣言を受諾した8月14日か降伏文書に調印した9月2日が適切だと思うのですよねー、個人的には。ま、今回はそういうのに目を瞑ります、敢えてね。

 

 今日は終戦記念日ということで、社会科学者の随想さんも紹介している戦後のアナーキスト奥崎謙三の言葉を紹介しておきたいと思います。

blog.livedoor.jp

以下引用です。個人的に重要だと思った所は赤字&太線にしています。

 

 数百万の無辜の民衆が死んだ,あの悲惨な太平洋戦争が,天皇裕仁詔勅で始まり終ったというまぎれもない事実は,日本人のなかで天皇裕仁の戦争責任がもっとも重くかつ大であることを,なによりも如実に証明するものである。

 しかるに裕仁は,ヒトラーのごとく追いつめられて自殺せず,ムッソリーニのごとく民衆によって処刑されず,敗戦によってもまだ天皇迷信の蒙から醒めない多数の日本人の無知と怯懦に支えられて,今日の特権的な生活を保障され,存在しつづけている。

この厚顔無恥としかいいようのない,天皇裕仁とその一族の精神構造は,絶対に正常なものではなく,「現人神」(あらひとがみ)であった当時の奇怪異常なそれとまったく同一のものである。

かかる裕仁およびその一族が,今日なお天皇,皇族,皇室として民衆の上に君臨することについて,激しい怒りと大きな疑惑を感じない者は,あの戦争の最高責任者である裕仁にその責任を問うことなく,敗戦前と同様に,尊敬・優遇しつづけてきた多数の日本人のこの感覚と態度は,去る昭和16年12月8日に無謀な戦争に突入した当時の日本人が示した狂った感覚と態度そっくりであり,そこには30余年の歳月が経過した年輪のあとがまったくみいだせない。

このようにして裕仁が,今日まで誰からも罰せられず,今日なお公然と天皇として存在するゆえに,私は誰よりも激しい怒りと,軽蔑の念を,裕仁と,裕仁を許している者たちに対して,抱かずにはおれないのである。

                  (中略)

私が死ぬまで裕仁に対する殺意を捨てきれないであろう理由のひとつは,ニューギニアの戦場で飢え衰え死んでいった,戦友たちの無念を忘れることができないからであると同時に,私が死刑になることを覚悟して殺そうとしても殺すことが不可能といっても過言ではないほどに,裕仁が私から遠く隔てられた高いところにいるからである。

                  (中略)

ニューギニアの密林で,極限の状況裡にあって,飢え渇えた末に,孤独に淋しく虚しく死んでいった,名もなき多くの兵士たちの亡霊に向って,私は「天皇を撃て!」と,死ぬまで慟哭しつつ叫びつづけることをやめることはできない。

(奥崎謙三ヤマザキ天皇を撃て!-”皇居パチンコ事件供述書”-』出版にさいして)

 

  著者の奥崎謙三ニューギニア戦線に送られ、右手小指を失って死線をさまよいました。その後連合軍の捕虜になって九死に一生を得ました。しかし、戦友は戦死(といううか餓死)しました。戦友は戦死し、自分は生死をさまよったのに、天皇はのうのうと優雅な暮らしを送り続けている…。その無念さが反天皇に向かわせたのでしょう。

 

 私自身、奥崎謙三に全面賛成するわけではありませんが(アナーキストな所とか)、先の戦争における天皇の責任は問い続けなければならないと思っています。それが今の日本に関する問題の大半の源流だと思うからです。詳しいことはあえて言いませんが。

 まずは『ヤマザキ天皇を撃て!~』を購入し、時間を作って最後まで読み通しておきたいです。きつい文章からして読むのはしんどそうですが…。

 

 拙い文章でしたが、最後まで読んでくださり有難うございました。

(終)